【ラ・ロシュフコー箴言集(訳:二宮フサ)】
情熱はしばしば最高の利口者を愚か者に変え、またしばしば最低の馬鹿を利口者にする。
慎ましさとは、妬みや軽蔑の的になることへの恐れである。
哲学は過去の不幸と未来の不幸をたやすく克服する。しかし現在の不幸は哲学を克服する。
死を解する人はほんの僅かである。人はふつう覚悟をきめてではなく、愚鈍と慣れで死に耐える。そして大部分の人間は死なざるを得ないから死ぬ。
太陽も死もじっと見つめることはできない。
われわれは気分に従って約束し、怖気に従って約束を果たす。
欲で目が見えなくなる人があり、欲で目が開かれる人がある。
われわれはあくまで理性に従うほどの力は持っていない。
人間は何かに動かされている時でも、自分で動いていると思うことが多い。
地位を確実に掴むために、人はあらゆる手を使って、すでに自分がその地位を占めているように見せかける。
運命は一切を転じてその寵児たちの利をはかる。
恋のあり方はひとつしかないが、そのさまざまな模造品は千百とある。
恋は燃える火と同じで、絶えずかき立てられていないと持続できない。だから希望を持ったり不安になったりすることがなくなると、たちまち恋は息絶えるのである。
ほんとうの恋は幽霊と同じで、誰もがその話をするが見た人はほとんどいない。
友を疑うのは友に欺かれるよりも恥ずかしいことだ。
われわれが不信を抱いていれば、相手がわれわれを騙すのは正当なことになる。
年よりは、悪い手本を示すことができなくなった腹いせに、良い教訓を垂れたがる。
名門の名は、そのよき担い手たり得ない者を、引き立てるかわりに卑小にする。
断じて媚は売らないと標榜するのも一種の媚である。
若者は血気に逸って好みを変え、老人は惰性で好みを墨守する。
詭計や裏切りは器量不足からしか生まれない。
単に無知だから利口者に騙されずにすむ、ということも間々ある。
少ない口数で多くを理解させるのが大才の特質なら、小才は逆に多弁を弄して何ひとつ語らない天分をそなえている。
世間は偉さそのものよりも偉さの見掛けに報いることが多い。
食欲は気前のよさ以上に理財の道に反する。
善と同様悪にも英雄がいる。
美徳は、虚栄心が道連れになってくれなければ、それほど遠くまで行けないだろう。
ひとしきりしか歌われないはやり唄にそっくりの輩がいる。
大部分の人は羽振りや地位によってしか人間を判断しない。
偽善は悪徳が美徳に捧げる敬意のしるしである。
虚栄心、恥、そしてとりわけ体質が、男の武勇と、そして女の貞節を成す場合が多い。
あまりにも急いで恩返しをしたがるのは、一種の恩知らずである。
最高の才覚は、事物の価値をよく知るところにある。
真の雄弁は、言うべきことはすべて言い、かつ言うべきことしか言わないところにある。
人の偉さにも果物と同じように旬がある。
伝染病のように感染る狂気がある。
恩知らずに力を貸すのは大した不幸ではないが、人でなしに借りをつくるのは耐え難い不幸である。
偉大な人物になるためには、自分の運を余す所なく利用する術を知らねばならない。
われわれの涙には、他人を欺いたあとでしばしばわれわれ自身まで欺くのがある。
洞察力の最大の欠点は、的に達しないことではなく、その先まで行ってしまうことである。
馬鹿には善人になるだけの素地がない。
他人の虚栄心が鼻持ちならないのは、それがわれわれの虚栄心を傷つけるからである。
気違いと馬鹿は気分でしか物を見ない。
信頼は才気以上に会話を潤す。
人間一般を知ることは、一人の人間を知るよりもたやすい。
年取った気違いは若い気違い以上に気違いだ。
頭のいい馬鹿ほどはた迷惑な馬鹿はいない。
頭がよくて馬鹿だ、ということは時どきあるが、分別があって馬鹿だ、ということは絶えてない。
恋を治す薬は幾つもあるが、間違いなく効くのはひとつもない。
大きな罪を犯すことのできない人は、他人に大きな罪の疑いをかけることもなかなかできない。
模倣はきまって惨めなものである。
自分の秘密を、自分自身が守れないのに、相手に守ってくれなどと、どうして言えよう?
友達の友情が冷めたことに気づかないのは、友情に乏しい証拠である。
善いことの終わりは悪で、悪いことの終わりは善である。
極度の退屈は退屈しのぎになる。