【平野啓一郎公式ツイッター】
歯磨き粉のチューブをふと見つめながら、モノにとどまっている視線の時間が、最近、極端に短くなっていることを思う。小説の書き手が描写に苦しみ、読み手が描写に倦む理由か。美しければ、その時間を喜びと感じられるはずだが。
小説が紙を去って、完全にオンライン上の存在になるなら、一般に馴染みのない語句の説明はすべて外部のリンク先に委ねられる。そうすると、今後の情報の過剰化を反映しつつ、それなりにヴォリュームが抑えられた小説になるだろう。会話の中で、一々初歩的な質問をするような登場人物が姿を消すはず。
ダ・ビンチの空気遠近法みたいに背景の描写を処理できないかとよく考えるが、言葉はどうしても対象をくっきりと指し示してしまう。「机」と書くと、机がぐっと前に出てきてしまう。
スーパーに行くたびに思うのだが、レジの人が、バーコードを通し終わった商品を、テトリスのように完璧に詰めていったカゴの美しさは、最早アートだと思う。外国人は、あれを見て、かなり感動するんじゃないか。
森鴎外の『小倉日記』では、日曜日が来ると必ず、「日曜日なり」と書いてある。7日ごとに几帳面に反復されるので、ページを捲っていると、整然としていてヘンに美しい。
「技術の進歩が人間概念を変えることがあると思いますか。」と澁澤龍彦は、三島由紀夫に尋ねている(『三島由紀夫覚書』)。三島は言下に答えて曰く「そんなことは絶対ないですよ。少なくとも人間が肉体の外へ一ミリでも出られない限り、(中略)人間概念は百万年後も今もおんなじだよ。」
電子書籍端末では、紙の本のように線が引けないとか、書き込みが出来ないとか、端を折れないとかいう話になるが、そういう機能も、じきに盛り込まれていくだろう。今でさえ、タッチスクリーンの技術がこんなに発展しているのだから。それまでは、紙の本に線を引いて読んでいるのかもしれない。
小説の場合、わざわざ面と向かって会わずとも、メールやスカイプなどで用事が済んでしまうようになると、登場人物がいつも同じ部屋の中にいることになって、場面が単調になってしまう。そうなると、対面コミュニケーションを「必然」として一番書きやすいのは、結局、恋愛だろう。
14日分の『かたちだけの愛』を送る。自分で創造した登場人物なのに、その人の気持ちが、急によく分かるようになる時がある。そういう回だった。うまく書けるかなと思いながら取り組んだ場面だったが。
時々、「平野さんって、あの『月蝕』の?」と言われる。なんとなく知ってくれているだけで十分なので、「いえ、『日蝕』です」とは言いにくいけど、「はい」とも言えない。あと、「直木賞を獲った方ですよね?」とも言われる。
東京は、ものすごく天気がよくて、ものすごく寒い。そして、なかなか原稿が書き上がらない僕は、ものすごく眠い。。。
京都駅で、坊さんの頭をたくさん見たが、剃髪というのはシーシュポスの神話だと思う。剃っても剃っても生えてくる髪の毛は、煩悩のメタファー。
「ヨーグルト(市販のカップ入り)を振ってから食べないのは、納豆を混ぜないで食べるのと一緒です! 開ける前によく振ってください」と、昔テレビで日本在住のブルガリア人が言っていた。それ以来、真面目に実践しているが、確かにトロトロになる。それがイヤな人もいるだろうけど。
それにしても、代表制民主主義の議会で、選ばれた代表が代表にふさわしいのかどうかをひたすら議論し続けている、この恐るべき停滞感。……
夕方、空腹のあまり、勢いで食べた「わかば」のたい焼き2匹が、胃の中でまだ、かなりの存在感を放っている。横尾忠則さんは、たい焼きのしっぽは、最後の「お口直し」のためのもので、あそこにまで餡を入れるなんて、邪道だと常々おっしゃっているが。
小説の登場人物の造形がうまくいっている時には、書いていて、その肉声がはっきりと聞こえてくる。逆に、声さえ聞こえてくれば、あとはあまり揺らがない。どこかでサンプリングされた声なのだとは思うけど、混ざり合っているのか、誰かは分からない。
手ぶらで本を読むというのは、たわいもないことのようだけど、読書は、音楽やテレビと違って、「ながら」が本当に出来なかったというのが、このマルチタスク時代には、かなり不利だった。手ぶらでも、出来ることはかなり限定されるが、朗読機能も付けば、「ながら」化も進むのでは。
プロダクト・デザインは、用途や性能によってどんなに多様に展開しても、結局は、人間の身体のサイズ、形へと着地するしかない。ということを、iPadを見ながら、改めて感じる。
「民衆」と「大衆」とを分けて考える。「民衆」は身体的存在で、規模は限定的。多様性が特徴。「大衆」は、マスメディア的現象で、規模は非限定的。画一性を志向。マスメディアの登場以降、人間の中には常に民衆性と大衆性とが同居。ネットは、ある意味、人間の民衆性を掬い上げたメディアか。
J=P.メルヴィルの『海の沈黙』鑑賞。映画や小説で、名作と呼ばれるためには、作中に名場面が幾つ必要なんだろうかと考える。鑑賞中は、10個でも20個でもあった方が楽しめる。しかし、振りかえると、3個だけしか名場面のない作品の方が、印象は強い。
トゥーサンの『愛しあう』は、読んだ時には、こんなカスカスの小説、どこがいいんだと全然感心しなかった。ところが、2年経っても、3年経っても、幾つかの場面が鮮明に記憶に残っていて、アレはアレでうまいのかと、最近になって感心している。
零戦の番組をチラチラ見ていた。戦場から帰ってきた人は、銃撃の様子を説明するために、「ダーッと」とか「バーッと」といった擬音語(オノマトペ)を、腹に力を込めて必ず使う。ビルマから帰ってきた祖父もそうだった。それ以外に表現できないのだろう。擬音語について改めて考えさせられる。
書籍の電子化についての僕の意見ははっきりしている。テンポはともかく、この流れは自明なので、関係者は各自で対応するしかない。後戻りは出来ないので、未来の可能性を考える事に時間を使うべき。ただし、失業も含めてかなり苦労する人が出てくるので大変だと思っている。力になれるなら相談に乗る。
毎日新聞向けに電子書籍についての文章を書いていて、「あまぞんがわのしゅちょう」と入力すると、「アマゾン川の主張」と誤変換された。川のお化けが立ち上がって、森林伐採に怒ってるみたいなヘンな絵が頭を過ぎった。
『ウェブ人間論』では、アーレントを使って、ウェブ空間を「新しい公的領域」と見なす議論をしたが、何の話題にもならなかった。今、ツイッターをやっていると、その発想の妥当性を感じる。あの対談自体は、かなり古びてしまった部分も多いけど。
思想というのは、メディアを通じて物理的に組織化されないと、伝わらないものだよという、レジス・ドブレの考えは、まったく正しいと思う。
アレグラは、僕にとっての「季語」。飛行機のパイロットが服用しても大丈夫という謳い文句の「眠くならない花粉症の薬」。これがないと、これからの季節は仕事が出来ない。ご興味のある方は、病院で処方してもらえます。
某出版社の編集者から、国際関係論の「平野健一郎」さん宛の仕事のメールが届く。以前に表参道の「COLORS」というヘアサロンの「平野啓一朗」さんと間違われて、インタヴューの謝礼が向こうに支払われていたと、編集者から謝られたことがある。関係者の皆さん、ご注意ください(笑)
ちなみに、「平野健一郎」さんにも「平野啓一朗」さんにも、お目にかかったことはないが、「平野啓子」さんとは、番組でご一緒したことがある。出演者名として、「平野啓子」「平野啓一郎」と並んで表示されて、なんか、ヘンなユニットみたいだった。
さいたまのW・ヒューストン。かつての剛速球投手のストレートが、140km前後しか出なくなってる、みたいな哀しさはあったものの、よくぞここまで立ち直った、という感じで、会場も結構あたたかかった。全盛期を彷彿させる瞬間もあり、アルバムがイマイチだっただけに、全体的には期待以上だった。
『美女と野獣』は、「野獣」がギーガーのエイリアンみたいな姿でも、あの結末になるだろうか。ヒロインは打ち解けられるか?そう考えると、美と醜、本質と外観というよりも、むしろ、人間性と獣性(=自然)というテーマに見える。「野獣」は自然の脅威の、「エイリアン」は宇宙の脅威のエージェント。
ギーガーの原画のエイリアンの頭部は、映画よりももっと露骨に男性器的で、その意味では『エイリアン』も、『美女と野獣』のヴァリエーションなんだろうけど、そのエイリアンが卵を産む、という設定が面白い。
紙の本の全集にはずっと憧れがあったが、あれも失われていく文化か。最後の三島全集は、1巻1㎏強で、全44巻の合計は60㎏弱。これは、三島の体重(59 ㎏)とほぼ同じ。偶然だが、これもまた彼の所謂「肉体と精神の一致」か。本棚には、三島の肉体が横たわっているのと同じ重みがかかっている。
UFC110。ノゲイラKO負けとは。。。燃えさかる炎の中で、今にも灰になろうとしている「勝利」を、ほんの一瞬の隙を突いてつかみ取るような彼の戦いが好きで、 PRIDE時代は毎回見に行っていた。一度対談(というか、インタヴュー)したことがあるけど、ナイスガイだった。
銀座のクリスティーズの後、長谷川等伯展へ。スタイルの探究と成熟の軌跡が辿れて刺激的。『松林図』一点というより、全体の流れを見るべきだと思う。何カ所かで、「ここ!」というブレイク・スルーの瞬間が確認できる。その後、エルメス銀座の「小谷元彦」展へ。帰宅して夕食後、原稿執筆中。
未熟だという自覚が深まっていくこと自体を、一つの成熟と信じたい。執筆の合間に、そんなことを思って自分を慰める。
小説も写真も、建築などと違って、誰もが元手をかけず、専門的なトレーニングもなく始められるのがいいところ。が、だからこそ、何億ものお金が動いて、何十人というスタッフが動いている世界なら、これでいいとは思わないだろうというような甘い表現も出てくる。審査を通じて自戒を込めて感じること。
登場人物の造形は、最初は、述語をある程度自由にして、固有名詞としての主語を豊かに充填していくしかない。が、ある時点からは、むしろ、主語が的確に述語を取捨選択しつつ、率いていくべき。そのタイミングが難しい。早すぎると類型的に、遅すぎると曖昧な人物になる。昨今は前倒しを求められるが。
定食屋で『ゴルゴ13』を読む。ゴルゴも、当初は述語がかなり自由で、笑ったり、ジョークを言ったりするが、連載が進むにつれて、そういう述語に相当する絵は、厳密に排除されていく。面白いのは、それが作者ではなくスナイパーとしてのゴルゴの成長に見えること。最早、笑わないゴルゴみたいな。
表現においては、ある世界観の中で、どれくらい「伸び伸びと」パフォーマンスできるかが重要。未知の世界観にトライした浅田選手は苦労したんだろうなという感じだった。キム・ヨナ選手の方が、想像の及ぶ範囲の世界観を掘り下げてムリがなかった感じ。その印象は採点者の主観に作用したと思う。
会田誠氏よりエッセイ集『カリコリせんとや生まれけむ』を送ってもらう。真面目ないい本。「星星峡」連載時にも読んでいて、原題は、『濃かれ薄かれ、みんな生きてんだよなぁ……』だった。いいタイトルだなと思ってたけど、今回、よくよく見てみると、「生えてんだよなぁ……」だった(笑)
フランス革命で、民衆の貴族に対する怒りが爆発したのは、専横な権力の抑圧や搾取に耐えかねたからではなく、逆に機能不全に陥った弱体化した権力に依然として富が集中していたから、というのは、トクヴィルの逆説的な分析。10年代は、政治や経済のあらゆる局面で、同種の反応が確認されるだろう。
文化多元主義cultural pluralismと多文化主義multiculturalismとの違い。大ざっぱに言うと、前者はリベラリズムに対応し、多様な文化の混交を是とする。後者は多様な文化を多様なまま、その出来する世界ごと認めようとするコミュニタリアニズムの立場。
ジャズの歴史の中でのマイルスとウィントンとの音楽観の違いは、60年代的な文化多元主義か(ジャズでもロックでもクラシックでも音楽は音楽)、80年代的な多文化主義か(ジャズはジャズ、クラシックはクラシック)の違いと解釈できる。
関係空間ごとの分人dividualを抱え込んだ個人individualのあり方として、『ドーン』では、分人多元主義dividual pluralismと多分人主義multidividualismとについて考えていた。分人は分けられたままの方がいいのか、混ざり合っていくべきか。
司会は、もっとうまくできたはずなのにと思うけど、結局、ま、しょうがないと思うしかない。タモリさんが『いいとも』の反省をしないというのは、そういうことなのか。司会は、反省という主体的な身振りになじまない仕事かもしれない。リディ・サルベールさん、江國香織さんのお話はとてもよかった。
世の中に絶えて花粉のなかりせば 春の心はのどけからまし……
博物館島を散歩。現地の人にとっての日常が、自分にとって非日常である時、不安を覚えることもあれば、心躍ることもある。今日は、静かな気分だった。逆に、ここの人たちにとっての非日常を、東京で毎日、日常と思い込んで生活していることが、なんとなく怖くなってくる。これからシンポジウム。
戦後の政治的な言説空間の中で、三島はポジションを見つけるのが難しかった。文壇でも、色んな人が戦争体験を語る中で、彼としては、当面、耽美主義者でいるしかなかった。60年安保によって、やっと彼も政治参加が可能になったが、その立場は、「反動」以外にはあり得なかった。昨日の食事中の会話。
それにしても、俺はやっぱり、三島が好きなんだなぁと、改めてつくづく感じた二日間だった。14歳の時に『金閣寺』を読んでいなかったら、恐らく違った人生になっていたはず。
夕方、近所のマッサージ店に。若い台湾人の男の子が担当だったが、形容詞の活用がまだ苦手らしく、「ちょっと‘弱く’」と言うと、「ああ、ちょっと‘弱い’?」と、もっと強く揉まれて、飛び上がりそうになる。日本語は難しいが、そこに落とし穴があったとは。。。
最近、なぜか、紙で手を切ることが多い。今も1カ所、左手の人差し指にけっこう深い切り傷がある。電子書籍の話ばかりしているから、紙に恨まれているのか?
東京は良い天気。昔から軽い飛蚊症で、普段は気にならないが、青空を見つめていると、ちらちらする。高校生の頃、なぜかいつも窓際の席だったので、授業が退屈な時には、よくその「ちらちら」を見ていた。飛蚊症という言葉を知らなかったので、空の毛細血管が透けて見えているようで不思議だった。
東京に戻る。京都の友人の結婚式は、初体験の仏式。焼香から始まるのだが、白無垢を着た新婦の手元から立ち上る煙の揺らめきは、ちょっと官能的だった。ホテルに場所を移して披露宴。スピーチがうまくいってホッとする。古いつきあいの友人なので、出席できてうれしかった。
「役に立つ人間であるということが、私には常に、何かしらひどく醜悪なことに思われた。」というボードレールの言葉を、時々ふと、思い出すことがある。こういう間違った、非常識な言葉には、妙に人を慰める力がある。
よく健康食品のCMで、「人間の1日に必要な栄養分を、野菜で採るなら、こんなにたくさん!」と、とんでもない量が映し出されるが、人類の歴史上、そんな食生活をしていた人間がいるのだろうか? 「1日に必要な栄養分」って、どういう計算なんだろう?
『かたちだけの愛』のあとに書く小説のテーマを突然思いつく。いつもそう。執筆中の小説が終わりにさしかかると、それまでどうしようかと考えていた次の小説の全体像が急にバーッと見えてくる。それにまた、今書いている小説が刺激される。
「たちあがれ日本」がOKなら、もう、「氣志團」でも、「DREAMS COME TRUE」でも、何でも良いような気がする。そのうち、バンドみたいな政党名がいっぱい出てくるんじゃないか。
ただの思いつきだったが、バンド名を政党名と思って眺め直すと、どうしてこんなに面白いんだろう? 「アジアン・カンフー・ジェネレーション」とか、「X JAPAN」とか、いろんなリアクションがあった。洋物も色々ありそう。「オアシス」とか。
小説を書いているとよく感じるが、分かっていることと出来ることとの間には、大きな距離がある。が、過去の自作を読み返すと、出来てしまったことが、何なのかよく分からないこともある。
総合格闘技は、00年代に最も集合知的な発展を遂げたスポーツだった。中心がないなかで、各分野からの技術的な知が持ち寄られて、ほとんど一大会毎に戦術が更新されていった。それは、明らかにweb2.0と同期的。動画やブログを通じて、選手だけでなく、観客の知識も随時更新され、遅れなかった。
桜の季節は短いけれど、あれだけの花を咲かせたあとに、たった数日で、あんなに緑の葉を茂らせることが出来るというのは、恐ろしいエネルギーだと思う。満開の桜も良いけれど、昔から、なんとなく葉桜の清涼感が好きだった。
僕の父は、健康そのものだったが、36歳のある日、突然心臓が止まって死んだ。僕が1歳の時。人間の心臓が、次の一拍を打つ保証はどこにもないというのが、僕の実存感覚の根本。
オメガのパーティで、生チャン・ツィイーを見る。声が可憐だった。隣の席が山田五郎さんで、初対面だったが、質問攻めで時計史のレクチャーをしてもらう。何でもよくご存じの山田さんだが、どうしてその中でも時計なのか、よーく分かった。時計をテーマにすると、語れる話題が多い
数年前に帰省した際、母から祖母が「あの子はちゃんと食べていけよるんやろうか?」と心配していると言われる。「なんで?」と訊くと、クラッシュ加工のジーパンを見て、ズボンを買う余裕もないのかとショックを受けたんだとか。ファッションだと説明したが、今回もやっぱり納得してない様子だった。
一度、実家の居間にクラッシュのジーパンを脱いで置いておいたら、いつの間にか、ほつれた糸が全部、糸切りバサミで切られていた。おばあちゃんの仕業(笑)。どうにも気になるらしく、今度は穴もふさいでおくと宣言された。今月、91歳になったが元気だった。
なぜ人間は、ある人のことは好きになって、別のある人のことは好きにならないのか。なぜ彼女は、彼を好きになって、自分を好きにならないのか。そこには常に、合理的には説明しきれない、一握りの神秘がある。何かそうした神秘を含んだことだけが小説のテーマになる。
『一月物語』の中に、「世界には、愛したいと云う情熱しかない。愛されたいと云う願いは、断じて情熱ではない筈だ」という一文を書いた。行動するためには、そう信じる以外にはない。情熱的に愛することは出来るが、情熱的に愛されることを待つというは、一種の消耗だろう。
それでも、Passion(情熱/キリストの受難)というのは、本当は「愛されることの神秘」に関わるものなのだろうと、このところずっと考えていた。だから「エリ、エリ、~」なのでは? マリアとマルタの話も、神を愛したいのか、神に愛されたいのかの違い。僕は昔からマルタが好きだ。
ショパンは、自作を披露する時には、毎回即興的に、まったく違ったスタイルで演奏していた。その意味で、ショパンの解釈は、自由であるべき。ただ、ショパンがもし、ポゴレリッチの演奏を聴いたら、ルバートで左手まで揺れることには苦言を呈しただろう。
ラ・フォル・ジュルネも無事、全日程終了。児玉桃さんの演奏で、アルカンの「海辺の狂女の歌」を聴く。タイトルからして凄いが、変人作曲家の面目躍如たる(?)素晴らしく変な曲。が、メシアン弾きでもある児玉さんの手にかかると、暗中に神秘主義的な光が差し込むようで、笑うのを忘れてしまった。
芸術において、型を破ること自体は難しくない。しかし、寄る辺のなくなったところで、その型破りを「これでいいのだ!」と自ら納得し、鑑賞者を納得させることは難しい。感覚的なものしか根拠がない時は特に。
それにしても、クラシックのコンサートに行くといつも思うが、楽章の合間は、咳をするための時間じゃない。静寂の中で前楽章の余韻と次楽章の期待とを楽しみたい。出る咳は仕方がないが、「念のため」としか思えない咳が多すぎる。
ポゴレリッチのように、この小節の、この8分音符、という拘り方を徹底すると、その分、楽曲の全体像はどんどん遠ざかっていく。すると、フォーカスが微視的になった分、全体のスケール感がアップするといった、逆説的な効果が生じる。巨視的な演奏家の方が、実はタイトな演奏に聴こえるのではないか。
その意味では、ポゴレリッチは結局、「微細なるものの巨匠」なのだろう。小説の場合、十年がかりの話を数ページにまとめたモーパッサンの短編よりも、数日の話を何百ページにわたって記したドストエフスキーの長編の方が書き方は微細だが、スケール感は大きいということがある。
スポーツ選手には、レベルアップしたい時に、「練習」が出来るという幸せがある。芸術家でも、演奏家などにはそれが可能だが、小説家は、実作の積み重ねを通じてしか進歩できない。風景描写が苦手だからといって、毎日、風景描写の特訓をする人はいないだろう。
これまでに何度か、テレビの密着取材のオファーをされたことがあるが、大体企画倒れに終わる。小説家は、ただひたすらパソコンの前にいるか、本を読んいるだけだから、まったく絵にならない。変化があるのは、打ち合わせとか、サイン会とか、そのくらい。「練習」という形で努力も見せられない。
出版関係者は、電子書籍化に関して、一生に一度、本を出してみたいというケースと、作家として食べていきたいというケースとを、ちゃんと分けて考えて欲しい。前者には確かに出版社は必要ないかもしれない。が、後者にはどうしたって必要。作家はとにかく、読書と執筆に時間を使いたいのだから。
言うまでもないことだが、作家が出版社に食わせてもらっているとか、出版社が作家に食わせてもらっているとか、そういう発想は完全に間違ってる。作家も出版社も読者に食わせてもらっているだけ。
明日(というか、もう今日だけど)は三島賞の選考会。選考委員になって三回目だけど、毎回、候補作の中に誤植を発見する。今回は、誤植とまでは言い切れないけど、校閲が見逃しているようなところを2箇所発見。勿論、選考にはまったく影響しない。自分の原稿だと、逆になかなか気がつかないが。
良いアイディアというのは、案外、誰にでもある。難しいのは、作品化すること。多くの人が理解し、感動する形にしようと思うと、また更に難しい。インスピレーションは、芸術創作にとって必要だが、それで十分ではない。
『決壊』は、背景のリアリズムに拘った小説で、場面によって都合良く嵐になったり、晴天になったりしないように、02-03年の『気象年鑑』を買って、作品内の天気を、全部現実の通りにした。一種の実験。おかげで、気象関連の本が出る度に、アマゾンからやたらとリコメンドのメールが届く。
「逆ギレ」の類語として「逆泣き」という言葉を以前に作った。泣きたいのはこっちなのに、相手の方が泣き出した、みたいな。別れ話を切り出された方じゃなくて、切り出した方が泣くとか。もしかしたら、男に多い現象なのかも。
少なくとも文化に関しては、20世紀まではガラパゴス化したものの方が世界に通用した。浮世絵も、ジャズも、マジックリアリズムも、いわばガラパゴス化の産物。ただし、情報技術の発展と共に、成熟期間と伝播期間とのギャップはますます小さくなってきている。マイナージャンルにも強みはある。
書籍の電子化で、出版社が自前で翻訳して海外のアマゾンなどで本を売る可能性について「中央公論」で話したら、平野は自分を育てた日本の出版業界を捨てて、 1人だけ世界的な作家になろうとしていると、どっかの出版社がHPで批判していた。どんな曲解をしたらそう読めるのか、不思議で仕方がない。
最近人と話していて、本当に恥ずかしいくらい簡単な固有名詞が出てこない。脳内の検索エンジンが情報量の増加について行けてない感じ。ネットみたいにキーワードから内容を検索するのではなくて、内容からキーワードを検索するという逆の方向だが。
小説の全体を見渡して、ダメなところを削ることは難しくない。が、「良いところ」も多すぎると相殺されて印象が薄くなるので、「より良いところ」を際立たせるためには、贅沢に切り詰める必要がある。これはもう、未練との戦い。
時々、「なぜ今、文学なんですか?」と訊かれる。はっきり言って、僕みたいな人間が生きてこれたのは文学のお陰で、そういう人は実際いるんだから、それでいいじゃないですか、思う。しかし、そこまでの愛情を全ての読者には求められない。割と本好きという人が今文学を読む理由はやっぱり必要だろう。
良くも悪くも自己主張が強いのがフランス人だけど、今回のナショナルチームは、ほんとにそのマイナス面を十二分に発揮していて、個人的にはかなりツボだった。フランス人は、愛すべき国民だと思う。
値段が高いものがなぜ高いのかは、大体曖昧にしか分からない。が、安いものが安い理由は、具体的によく分かる。そうすると、高いものがなぜ高かったのか、急に分かるようになる。――ワールドカップと何の関係もない、ここ数日の個人的な教訓。
『ザ・コーヴ』を巡る一連の騒動で、一番罪作りなのは、あれに「ドキュメンタリー映画」としてのお墨付きを与えた賞の審査員たち。受賞がなければ、制作者は、イルカを聖別している人たちなんだから、当然、ああいうプロパガンダ的な作りになるだろう、というだけの話だったのでは?
京都に住んでた頃は、宵山なんて人が多いばっかりで、全然行く気がしなかったけど、今テレビで中継を見てると、歩いてる人が何とも言えず羨ましくなる。京都は、メディアと相性がいい町だと思う。もちろん、実際に住んでもいい町だけど。
10年ほど、京都に住んでたけど、よく言われるように、京都の人から意地悪されたりしたことは一度もなかった。あれは結構、京都人自身の自虐ネタも入ってると思う。京都の人はいい人だと言うと、当人たちが、京都人がいかにイヤらしいかを力説することはよくある(笑)。
「広告」=広く告げる、という字義通りの意味で、横尾さんのポスターの強度は圧倒的。一つ一つが、どんなにボーッと歩いていても、絶対に目につくような作品で、1枚貼っただけでも、その空間が完全に支配されてしまうような作品が、800点も展示されている。こんなのも!という意外な発見も多し。
これまでに、ギャンブルで総額5億円負けているという、元大嶽親方のインタヴュー(『FLASH』)。相撲部屋の稽古の厳しさを語って、「毎日、壁に頭を1 千回もぶつけていたら、そりゃアホになりますよ」とのこと。そうだろうなあと、うなずかざるを得ない、ものすごい説得力(笑)。
方向音痴が書く小説と、そうじゃない人が書く小説とでは、描写やプロットの運び方が、かなり違うんじゃないか。一人称でうまく書ける人は、方向感覚がいいんだと思う。方向音痴には、三人称の方が向いているというのが、個人的な実感。善し悪しでなく、空間認識と情報の取捨選択方法のタイプの違い。
国家は、たった一つの政治体制しか選べないという意味で、その関係は結婚に似ている。アメリカは、初恋の共和制と結婚して、一度も離婚しなかった。フランスは、王政と別れたあと、共和制と再婚して、四度も別れて、四度ともヨリを戻している。さすがに五度目となると、共和制自体も大分変わったが。
日本の場合、戦後の民主主義との結婚は、いわば「見合い」だったが、だからといって必ずしも相性が悪いわけではなかった。前の相手とは半ば強引に別れさせられたが、見合いの相手が、大正時代に恋い焦がれていた相手と似てないわけではなかった。ドイツのように結婚後に酷い相手だったと判明した例も。