【四十歳までに何を学び、どう生かすか】
羽生世代のトップ棋士はそんなことはないが、最近の二十代の棋士を見ていると、もちろん情報には強いし、最新流行形に対する研究も進んでいる代わりに、型から離れた局面を自分で切り拓いていく逞しさに欠けるところを感じる。また、今の将棋とかつての将棋を比べると、最近の棋士は優勢な将棋を勝ち切る技術は進んでいるものの、苦しい将棋を粘って逆転させるような精神力が足りないようにも思われる。
常識はずれの最善手を探しだすことが、将棋の一番の醍醐味なのではないかと思う。
バブルの時代、棋士の中にも対局中にテレビの株式ニュースを気にしている人がいた。これでは勝利の女神にもソッポを向かれるだろうと、他人ごとながら気になったものだ。
例えば何か事業を興すために人からお金を借りるというようなことは、どうなのだろうか。四十代と言えば、社会に出てからすでに二十年ほどの時間がたっている。事業を成功させるような才覚のある人であれば、当然それまでにいくらかの蓄えができているはずであろう。それができていない人というのは、厳しい言い方になるが、事業を成功させるなどとても覚束ないと見られても仕方ないのではなかろうか。四十歳を過ぎれば、家を買うとき以外にお金を借りてはいけない。これが私の借金に関する哲学である。
将棋は、一人だけで指せるわけではない。相手があって初めて勝負が成り立つ。こちらが全身全霊を傾けて指した一手をがっちりと受け止め、渾身の力をこめてはね返してくれる。そんな相手と対局できるときこそ、棋士にとって至福のときである。幸せなことに、私にはそんな相手がいる。言うまでもなく、羽生善治さんその人である。彼がいてくれなければ、私の棋士人生はどんなに彩りを欠いたものだっただろう。この地上で羽生さんと出会い、ともに同時代を生きることができたことを、どれほど感謝してもしすぎるということはない。
よく「女流棋士には女性ならではの将棋の特徴というのがあるんですか?」と聞かれるが、私が見る限りでは特にそれはないと思う。受けに徹する人が多いかと言うとそうでもなく、むしろ攻め気が強い人が多い。そういう点では、男だから女だからということはあまり関係ないようだ。
内藤先生は、子供の頃の私の将棋の印象として、「指し手に嫌味がない」ことをあげてくださり、「これは相手に無用の嫉妬心を起こさせないということで、とても大事なことだ」と仰ってくださった。嫌味がない、というのは内藤先生独特の言い回しだが、確かに先輩棋士の中には、優勢な将棋のときにも相手に投了する機会を与えず、駒を全部取って市中引き回しにするような勝ち方をされる先生もいた。それもまた個性であろうが、私の場合はあまりそういう勝ち方をしたいとは思わない。
プロ棋士は、タイトル戦や重要な棋戦では和服で対局することが多い。対局に負け、控え室で一人で着物をたたむときなどは、なかなかみじめな気分である。
「忘れる」ということを前向きにとらえよう。記憶力は、人間の知的能力のうちごく一部に過ぎない。
何よりも大切なのは、体力というより体型を維持することだと思う。
棋士にとって体重が増えるということは、何よりも正座が辛くなるという結果となってはね返ってくる。別に対局中にずっと正座をしていなければいけないという決まりはないのだが、やはりあぐらをかいて将棋を指していると局面に集中しづらいものなのだ。「対局中には香車四枚を見ろ」ということがよく言われる。つまり、香車はだいたい将棋盤の四隅にあるので、それを見ることで盤面全体を視野におさめなさい、ということなのである。そのためには、やはり正座をしていたほうがよい。あぐらをかいてしまうと目線が低くなるので、盤面の一部分しか見ないことになりやすいのである。局面を客観的に見るためにも、正座して姿勢を正し、視点を高くすることが大切なのだ。
引退が決まった後で声高に批判するつもりはないが、それにしても初場所の声援は異様な雰囲気だった。横綱が長らく休場しては少し出場して、ということを繰り返している間に、他の多くの力士は六場所全部出場し、稽古も一生懸命しているわけである。それが貴乃花と対戦するだけで敵役のように罵声を浴びせられるというのでは、他の力士があまりにも気の毒である。あれは、声援ではなく、同情である。同情されるようでは勝負師としてお終いだ、ということぐらいは、本人もよくわかっていたのではないだろうか。
実は風邪で熱があるぐらいでは対局にはそう影響があるものではなく、むしろ集中力が増すぐらいである。もっとも、対局が終わった後は倒れて寝こむことになるが。
長時間きちんと畳の上に座っていられるというのは、棋士の基本である。正座するのがどうにも苦手、というような奨励会員を見ると、「君はいったい何になりたいのか」と言いたくなることもある。
十代二十代の頃は、努力すれば実力は伸びる。また、努力が可能な年代である。しかしある程度の年代になってくると、努力とか頑張りといった言葉は少し似つかわしくない。四十歳にもなって、今さら力瘤をつくって「努力しています」と言うのは大人げないし、若い人と同じように力んでみても、体力がついていかないということになりそうである。
宇宙のような広がりをもつ巨大な将棋の世界のうち、ほんの片隅をつつくように研究して、それで将棋がわかったような錯覚をしないことだ。