【国家の衝突 連載第72回】
何を狙ってる? ウォールストリートの卑しい職業から、デトロイトに転身か? やめておけ。お前みたいな奴は、いくら金を持っていても、デトロイトじゃ軽蔑される。何も作らないで金を儲けてる奴は、あそこでは、ライン末端の労働者以下としか見なされないんだ
労働者から経営者まで、互助精神に富んだ美しい国はもうここにはない。かつての本田宗一郎や中井健太郎のような、目を輝かせた技術者たちも消えた。残ったのはアメリカのミニチュア版みたいな国――いや、アメリカの卑しい部分だけ集めた卑しい国だ。投資銀行で巨額の富を稼ぐような者がもてはやされ、そのくせ、アメリカの支配階級が培ってきた美徳も、連帯意識もない。国が崩壊するというのは、こういうことだ。
【国家の衝突 連載第66回】
市場や政治的な権力闘争などによって人間が合理的になればなるほど、人間の行動は、単細胞生物や素粒子の行動に近づく。
ロータリーエンジンは、その技術の質というよりは、それが日本の小さな会社に独占されているということだけで、危険過ぎる技術だ。
【国家の衝突 連載第61回】
国際交渉は、最初に議題――議論が行われる土俵――を設定してから、その土俵の上で激しい駆け引きが繰り広げられる。だが、実際には議題が設定された段階で、交渉の勝敗は半ば以上ついている。その典型例が、CO2排出を巡る地球温暖化防止京都会議において合意された京都議定書である。会議が行われた時点で、CO2排出対策が先進諸国の中で圧倒的に進んでいたのは日本だった。だから、例えば対GDP比でCO2排出の上限を定める、という形で議題を設定すれば、日本にとっては楽なハードルが設定され、CO2対策が最も遅れているアメリカにとっては厳しいハードルが設定されるはずだった。しかし実際には、1990年などを基準年にして、その時点から削減すべきCO2排出量などの割合を定める、という形で議題が設定された。もちろん、すでにCO2排出対策が進んでいる日本企業が追加的に1%のCO2を削減するコストと、対策が遅れているアメリカ企業が追加的に1%削減するコストとでは、圧倒的に日本企業の負担の方が大きい。つまり、そのような議題が設定された時点で、日本はアメリカに対して交渉に負けたのである。
また、ヨーロッパの中では、CO2対策が進んでいるドイツやフランスのような国と、全く進んでいない東欧諸国とに二極分化していた。例えばドイツやフランスが単独で京都議定書にサインすれば、京都議定書が課す基準は日本と同じような高いハードルとなっただろう。しかし、ヨーロッパはEC全体で京都議定書にサインすることが許された。いわゆる<どんぶり勘定>である。その結果、東欧諸国でCO2排出量を削減すれば、フランスやドイツなどはほとんど削減せずに済むことになった。ここでも、EC全体で排出量を測る――という議題設定を行った段階で、日本はヨーロッパに負けたのだ。
マスコミで報道される国際交渉は、たいがい議題が設定された後の細かな駆け引きである。京都でも、90年を基準とした削減幅を巡って、激しい交渉が繰り広げられた。しかし、その前の議題設定の段階で、勝負は半分以上ついている。そして、アメリカやヨーロッパなどは、その段階で、日本など新興国に対して圧倒的に優位に立っていた。
【国家の衝突 連載第58回】
これが、霞が関の論理だ。見栄や建前にばかり目が行き、政策の中身はいつも二の次になる。最大の敵は相手国ではなく他の省庁。いくら良い政策を打ち出しても評価されず、大臣や上役に出番を作ったり、他省庁を出し抜いた者ばかりが得点を稼ぐ。インセンティヴは完全に狂い、視線は国民ではなく省内や他省を向き、それを修正する手段も持たず、有能な若手は腐る――。
【国家の衝突 連載第55回】
経済学者が想定する<合理的>な人間は、一銭でも高い報酬の仕事にはすぐに飛びつき、選挙では一銭でも多くの便益を与えてくれる政治家に投票し、工場で経営者が少しでも目をそらせばすぐに怠業するような人間です。だけど、そんな人間は人間以下の、いわばクズです。
愚か者であること、不合理であることこそが、人間としての証であり誇りなのじゃないかと思っています。――このことは、例えば好きな映画や小説を思い浮かべれば簡単にわかる話です。人を感動させるものは常に、不合理な行動や情熱で、合理的な行動には、美しさも人間らしさも人を感動させる力も、ありません
【国家の衝突 連載第54回】
ここ何年か、グローバリズムを、あたかも歴史上類のない革命のようなものとして吹聴する学者やジャーナリストが多い。彼らの中には、グローバリズムやIT革命がこのまま直線的に進み、国家や国境さえもやがて無意味化して、やがて世界は統合される、とまで言い切る者もいる。だが、少しでも真面目にデータを検証すれば、過去にも、今以上のレヴェルでグローバリズムが進んだ時期があったことにすぐ気づくはずだ。その反動が、二つの世界大戦であり、大恐慌であり、経済のブロック化だった。
中高年労働者の雇用が企業によって守られた結果、若者の就職率が落ち、最も学習能力が高い時期に、彼らは体系的な職能訓練を受けられずに、日々をアルバイトで食いつないでいる。そのしわ寄せは、将来必ず来る。
もちろん、アメリカ軍も運河の重要性は認識していたから、運河が視界に入る地域に住む住民の身元は徹底的に洗った。それでも、その日本軍スパイを簡単には割り出すことはできなかった。なぜなら、そのスパイは大戦の何十年も前にそこに住みつき、そこで結婚して子供を産み、現地の住民に完全になりきっていたからだ。パナマだけじゃなく他の要衝地――ハワイやグアムなどにも、そういった日本のスパイは多数もぐり込んでいた。
【国家の衝突 連載第53回】
これじゃあまるで、政治学者の言う<バプチスト=マフィア連合体>だ。禁酒法の時代、法律廃止に最も強く抵抗したのが、キリスト教徒の中でも特に敬虔とされるバプチストと、禁酒法の裏で酒を横流しにして利益を得ていたマフィアだった。そして両者は、その思想・信条が全く異なるにもかかわらず、禁酒法廃止を防ぐべく連携した。政治は所詮、権力と数を巡る野合だ。この政治学用語は、そのことを象徴的に示している。
【国家の衝突 連載第52回】
軽薄で、卑しい時代なのだ。そして、何も解決されない。霞が関も例外ではない。この世界の論理では、いかにIT革命論や財政拡張主義の根拠が怪しかろうと、それに乗じて自分の課の予算を増やした者が成功者とみなされる。だから、ネットバブルが弾けても、財政拡張主義が破綻しても、ろくな分析もせずにIT革命を声高に主張した者たちの責任は問われず、勝者たちは年初の美酒に酔う。こうした無責任で卑しいエコノミストや政治家や官僚たちを簡単に批判することはできない。日本というシステムが、彼らにそう振る舞うようにインセンティヴ付けしているからだ。だから、そこで損をする誠実な人間は――ただの愚か者でしかない。つまり、日本のシステムによって、真摯で誠実な人間は、ただの愚か者に変換されるのだ。
【国家の衝突 連載第48回】
時代の流れに乗って、効率的に金を稼ぐ仕事にプライドはいらない。格好良い仕事をするにもプライドはいらない。そこで必要なのは頭脳――頭の良さと、計算だけだ。
【国家の衝突 連載第47回】
国家というものは、人間が創り上げた醜くて脆弱な虚構物だ。グローバル化が進むにつれ、それは民主主義過程を通じ、ますます人間的な体臭を臭わせるようになっている。
【国家の衝突 連載第46回】
国際会議などに出ると、そのメカニズムがよくわかる。昼の会議で途上国の貧困問題について語り合いながら、夜はブラックタイのパーティで、キャビアとクラッカーをつまみながら、シェークスピアやデカメロンのレトリックを使った会話だ。そこに、お勉強だけできて教養のない日本や韓国の官僚などが加わろうとすると、相手に気づかれないように、みんなでさんざんからかう。そういう世界だ
【国家の衝突 連載第45回】
アメリカが競争力を持っている産業は、どれも初期の段階では、国防総省が巨額の国防予算を投じて育成した産業だ、ということだ。今では自由と繁栄の象徴のシリコンヴァレーやカリフォルニア全体も、実際には軍需産業の集積地だ。コンピューターの第一号機は空襲予知器として開発された。
産業競争力調査を定期的に発表し、産業に多額の資金を注ぎ込んでいるのは、商務省ではなく国防総省なのである。
アメリカという国は、軍事とか国防とか安全保障といった隠れ蓑の中で、経済や産業にさんざん介入してきた国家だ。日本は産業主義国家、アメリカは自由と競争の国、というイメージも、アメリカによって巧妙に仕組まれたプロパガンダだ。
秋が訪れる度に、思うことがある。ニューヨークには緑がない、だから紅葉もない。
【国家の衝突 連載第43回】
デトロイトを崩壊させたのは、日本車の輸出攻勢でも経済不況でもなく、デトロイト自身が作り出す自動車と人種差別だという。自動車の街と言われるだけあって、デトロイト市周辺では高速道路の整備がいち早く進んだ。その一方で、60年代に公民権運動が高まりを見せ、スクールバスの導入によって、住んでいる地域が異なる白人生徒と黒人生徒を同じ学校で学ばせようとする政策が実施された。そして、白人は郊外に逃げた。スクールバスが追いつけないほど遠くに逃げた。自動車を持つ彼らにとって、高速網が発展すれば、もはや都心に住み続ける必要もなくなったからだ。その結果、市の北方を走るシックス・マイル・ロードを境に、それより南は黒人の縄張り、それより北は白人の縄張り、という暗黙の了解がいつの間にか生まれ、スクールバスもその道路を越えることはなかった。貧民ばかりが残された都心部はスラム化し、地域コミュニティは破壊され、一方では、北西部のブルームフィールド・ヒルズのように、住民一人当たり所得が全米一の郊外都市も生まれた。新たなWASPコミュニティもそこで生まれ、発展した。税収不足の都市部では、警察官も満足に雇えず、毎日三人以上が撃ち殺される。それに比べ、ブルームフィールド・ヒルズなどでは、警察官が自転車でにこやかに市中をパトロールし、中学生が万引きで捕まった事件が一面を飾る。これが、日本人が知らない<地方自治>の残酷な姿だ。
こうして、自動車によって栄えた街は、自動車によって人種が分断され、コミュニティが破壊され、自動車によって崩壊した。そして一方では、<新天地>が築かれた。自動車の街が、アメリカで最も深刻なスラム化と都市崩壊に襲われたのは、偶然ではなく必然なのだ――。
【国家の衝突 連載第40回】
国家というものが、人を甘やかし、弱者を増長させ、卑しくさせている。
ヘンリー・フォードは、労働運動をマフィアを使って厳しく弾圧するなど、保守的な言動でよく知られている。だが彼は、労働環境の改善にも熱心だった。
【国家の衝突 連載第37回】
国際会議で、どの省庁がどの順番で発言するかは、日本の官僚たちにとって最重要事項だ。メインテーブルに座る席順、発言の割り振りなどを巡って、交通経済省、外政省、財政省、などの国際官僚たちは、連日のように、深夜まで激しい言い争いをする。
【国家の衝突 連載第34回】
マスコミとかでアメリカを手放しで賞賛しているような人たちは、みんな、数年だけアメリカの大学や高級住宅地で過ごして帰ってきた学者とかビジネスマンの人たちばかりでしょう。アメリカは、学者とかエリートビジネスマンとか、インテリ階級が気持ち良く暮らせるように、他がすごい犠牲を払って支えている国だと思わない? だから、アメリカの一番良いところを見て、それと日本を比べるようじゃあ、現実離れした、ただの評論家よ
馬鹿な人の心を読むのは大変なのよ
利口な人の行動って、簡単に読めるのよ。お金を儲ける。美味しいものを食べる。良い家に住む。私は家でパグ犬を飼っているけど、すごく合理的よ。餌をもらえば喜び、それが美味しければもっと喜ぶ。寒いときに暖かいベッドに入れてもらうと喜ぶ。餌をくれる人のことを一番大事にする。それでも犬だと、飼い主に対する愛情とかあって、不合理なところもあるのだけど、下等動物なんてもっと合理的でしょう。
馬鹿だから、不合理だから、人間なのよ。同じ人間でも、馬鹿さの度合には相当差があるけど。だから、最近の新聞とかで、日本の会社とか経営者が不合理だ、とか批判しているのが、私にはわからない。合理的になる、っていうことは、私にとって、退化することのように思えるから。
【国家の衝突 連載第33回】
欧米の都市の場合、美しい街並みを維持することは市民の義務と考えられ、建物の外観には厳しい制約が設けられる。その代わり、個人が決定権を持つ内装については、各人が自由な趣向を凝らす。日本では、それが完全に逆になる。
【国家の衝突 連載第31回】
環境規制は実質的に貿易障壁として用いられるようになる可能性がある。
公共心とか、国家への忠誠なんていうものは、支配する者が、支配を永続させるために考え出した概念さ。WASPのような支配者は、自分が得をする現在のシステムを維持したい。だから、多少の自己犠牲を払っても、システムに反乱を起こしそうな連中に恩恵を施してやるんだ。システムが維持されさえすれば、そんな犠牲は十分に元が取れるからな
【国家の衝突 連載第29回】
俺たちがこれから向かい合うのは、国家と国家の衝突なのだろうか。それとも、国境を越える強者たちと、国境にしがみつく弱者の群れの衝突なのか、あるいは古典的な、資本と労働との衝突なのか――。
おそらく誰もわかっていないだろう。それでも政治的な衝突は繰り返され、どの方向に弾を撃つべきかもわからないまま、人々は闘いに参加し、自らの利益を最大化しようと、ピストルを振り回す。
【国家の衝突 連載第26回】
外資系投資銀行の連中なんて、日本では大きな顔をして、日本のシステムや銀行員を小馬鹿にしたりしてるが、彼らが社内でやってることと言えば、本社のアメリカ人の意向と日本の取引相手とをつなぐだけだ。要するに、本社の連中にしてみれば、奴らは現地採用の通訳・営業要員――小間使いだよ。
1910年代は、現在よりグローバル化が進んだ時代だったが、世界経済が崩壊して、二つの世界大戦が起こった。あれから、政府は肥大化し続けている。だから、きっとまた、何かが起こる――
【国家の衝突 連載第25回】
アメリカがバイに持ち込む――。あり得ない話ではない。WTOで勝てないと見れば、バイで強引に押し切ろうとするのが、連中のいつもの手だった。こういうのを官庁用語では<強姦>すると言う。日米経済関係の歴史は、いわばアメリカによる日本の強姦史だ。
【国家の衝突 連載第24回】
五年ほど前になるだろうか。日米両国は自動車を巡って激突した。恐らく、短期間にあれだけ日本のことがアメリカのマスメディアに取り上げられたのは、第二次大戦以来だろう。当時のUSTR代表が、これもまた当時の交通経済大臣の喉元に竹刀を突きつけてポーズを取った写真は、全世界の主要紙のトップを飾った。表面の華々しい経済交渉の裏で、CIAやNSAが暗躍し、誰かしらが作為的に捏造した情報が日米間を走り、国内外で政治的闘争が繰り広げられた。交渉の最終段階では、利害関係があまりに複雑に絡み合い、誰が敵で誰が味方かも見分けがつかなくなった。
【国家の衝突 連載第23回】
ウォール・ストリートでの一年は、他での五年分の体力や知力を消費させる。だから、四十代までに一生分の給料を稼ぎ、あとは季候の良い西海岸や地中海沿岸などで悠々自適の生活を送るというのがそこで働くトレーダーたちの夢だ。
時代の変わり目に、いつも人の意識はついていけない。
人の意識は、時代の変化には遅れるが、一代や二代では築けない美しいものも時間をかけて醸成する。
【国家の衝突 連載第20回】
自分の行動は棚に上げ、マスコミなどで口当たりが良いことを並べ立て、時には自分の所属する組織のことを批判して自分は「違う」ということを強調し、自分だけ目立って人気を得れば良いと考えているような連中が、学界だけではなく、丸の内や霞ヶ関や永田町などでも、幅を利かせ過ぎている。出世競争に敗れた相手の行状を、マスメディアに内部告発するサラリーマン。自分のことは棚に上げ、世間受けする霞ヶ関批判を展開するリベラリストを気取る官僚や官僚OB。カメラの前では自分の党の上層部を口汚く罵るくせに、大臣・次官などのポスト欲しさに党を一向に出ようとしない与党の若手議員。――どんどん卑しくなっている。
【国家の衝突 連載第17回】
傍から見れば単なる英文の朗読である。だが、この朗読を誰がやるかが、霞が関の官僚たちにとっては一大問題なのだった。外政省は、外政を管轄しているのが自分たちだということを他国に示したい。経済官庁は、経済案件は自分が管轄していることを示したい。こんな子供じみた諍いで、霞が関では徹夜の折衝が続けられる――。
政府においては、市場と違って貨幣や価格が存在しない。しかし、貨幣の代わりの働きをするものは存在する――それが、権力であり面子であり体裁なのだ。そして、霞が関ではその『貨幣』を集めた者が出世し、自分の後任には、『貨幣』を集めてきた者を引っ張り上げる。
以前の霞が関には、奇妙なほど陽気な熱気や気概があって、それが多くの野心的な若者を惹きつけた。
どうして昼時の番組はこれだけ画一的なのだろう。これが、この時間帯に家にいる主婦層の関心を示しているとすれば、ちょっと恐ろしいことだ。
【国家の衝突 連載第16回】
最近、グローバリゼーションという言葉がよく使われるよね。これは、資本や製品が国際的に移動する現象を主に指した言葉らしいけど、資本や製品なんかよりはるかに昔からグローバル化していたのが技術だと私は思う。例えば航空機のターボ・プロップエンジンには国籍はないし、ドルや円といったラヴェルも付けられていない。歴史的に見ても、優れた技術、あるいは国際スタンダードを勝ち取った技術は、国境を越えて世界を席巻してきた。そして、技術と正反対の位置にあるのが人(あるいは労働)だ。人のグローバル化は、資本や製品、さらには文化なんかよりはるかに遅れている。今でも、国境を越えた人の流れを厳格に制限していない国はほとんどないだろう。こうした、技術、資本、製品、文化、人の間に横たわるグローバル化の度合いのギャップが、国という単位あるいはモノ(?)の存在意義を必要以上に大きくしている気がする。例えば、最もグローバル化が遅れた人が、他の要素のグローバル化が進めば進むほど、国に依存するというように――。
【国家の衝突 連載第15回】
「宇宙船地球号」とか「人類皆兄弟」なんていう言葉を臆面もなく口にする教師は、実は海外に一度も出たこともないような人たちだったし、周りはみんな、同じ髪と肌の色をした連中だった。
【国家の衝突 連載第14回】
この国には最近、言い訳ばかりが氾濫していると思わないか
仕事に全力を尽くさなくても、それは家族や自分の人間性を大事にした結果だと慰められる、出世競争に敗れても、自分の信念を曲げなかったからだと慰められる、社運を賭けて応募した国家選定プロジェクトに落ちても、会社が小さいからと慰められる、勝者をみんなで寄ってたかって引きずり下ろし、敗者同士で傷をなめ合う……言い訳だらけの優しい国だ、この国は
今の日本人が抱え込んでいるのは、プライドなんかじゃなくて、実体のない虚栄心だろう。プライドというものは、実力のある者だけが持つ資格のある贅沢品じゃないのか
【国家の衝突 連載第13回】
大手メーカーなどによる政治的圧力はよく問題視されるが、それも、政治的あるいは民主主義的観点からの要請と捉えることが可能である。なぜなら、政治献金、利益誘導、圧力団体などは、いずれも民主主義の正統的な副産物なのだから。他に、外交的観点、経済的観点等々、政策運営にあたって考慮しなければならない観点は多数ある。そして、行政官が、理論家でも評論家でもなくあくまで実務家である以上、技術など単一の観点からプロジェクト選定の是非を判断するわけにはいかない――。
政府の政策の多くは、一つの尺度から測れるような単純なものではなく、複数次元の要素が詰め込まれた複雑なものなのだ。
プロジェクトの選定結果に対し、技術者は、技術的に優れた提案が落とされたことを批判し、経済学者は、効率性の悪いプロジェクトが選ばれたことを批判し、一部文化人は、国民の潜在的支持の高い環境フレンドリーな提案が選ばれなかったことを批判する、といった具合だ。つまり、実務家である政策担当者が発表する政策やプロジェクトは、常にどの尺度から見ても不十分なものであり、常にあらゆる専門家の批判を浴びることになる――逆に、一部の専門家の賞賛を浴びるような政策やプロジェクトは、著しくバランスを欠いたものでしかない。実際の例でも、理論経済学者が主導したロシアなど移行国の経済政策や、技術者に選考を委任した我が国の一部の科学技術プロジェクトの結果を見れば、専門性の突出に弊害が伴うことは容易に見て取れよう――。
【国家の衝突 連載第8回】
どうして日本人はいつもこう、他国人の前で、自国のことを簡単に批判し嘲笑するのだろう――。
もし燃料電池型自動車を旧来の『自動車産業』の枠から外して、例えば『電気自動車産業』という新たな産業分野に属すると考えれば、これほど成長ポテンシャルのある産業はシリコンヴァレー界隈でもほとんどないのじゃないですか
これから新技術がこの業界を席巻し、その技術を独占する会社が、ソフトウエア産業で最近勢いづいているマイクロソフトのように、産業を独占するような状況になれば、その会社がアメリカにあることは間違いなくアメリカにとって良いことです
【国家の衝突 連載第7回】
世間には、自動車産業のように、生産ラインの効率性を一秒単位で誇る組織もあれば、自らの非効率性を他人に押しつけることが権威の顕れと勘違いする組織もある